神楽殿と永職館
神楽殿は本来、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館」と呼ばれていました。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、様々な祭事や行事が執り行われています。
昭和56年に出雲大社教が特立100年を迎えた折、現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。
正面の大注連縄は平成30年に懸け替えられたもので、長さ約13.6メートル、重さ約5.2トンに及びます。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられます。また神楽殿前庭には高さ47メートルの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳(タテ9.0メートル・ヨコ13.6メートル)の大きさです。
また、国旗掲揚塔の南には祓社、金刀比羅宮が並んでお鎮まりです。
神楽殿(風調館)大広間に掲げられた有栖川宮幟仁親王殿下御親筆の額
明治40年当時の神楽殿
右側は出雲大社教(当時「神道大社教」)の教務局
特立50年(昭和7)に際し改築された神楽殿
左に見えるのは新築された教務局
特立50年(昭和7)に際し改築された神楽殿の殿内
神楽殿の西側には千家國造家(出雲大社宮司家)の屋敷となる「千家國造館」があります。その門には「出雲國造 千家國造館」の表札と共に、「永職館」の表札が掲げられています。
この永職館の呼び名は出雲國造(千家國造)の特別な立場に思し召された霊元天皇(御即位1663年~1687年)の御叡慮に由来しています。
寛文5年 (1665)、 江戸幕府は 「諸社禰宜神主法度」を公布し、全国の神社と神主を統制しようとしました。しかし、出雲大社は『古事記』『日本書紀』などの神話伝承、また古代以来の格別な祭祀の伝統を主張し、これに異を唱えました。
そして寛文7年(1667)、霊元天皇は悠久の歴史を有する出雲大社、その祭主である出雲國造の伝統と道統に思し召され、出雲國造はこの法度に関わらず、古代以来の特別な立場をもって永くその職に仕え、祭祀に専修するようお命じになられました。 |
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第七十八代出雲國造
千家尊孫筆による
「永職館」額 |
これを「
永宣旨」と言い、その中にある「出雲國造は、もと
寿詞を奏し、恒に
潔敬を異にし、神のため自ら重んず、
及し
須く永くその職を掌るべし」との霊元天皇の大御心により、以来、千家國造館を特に「
永職館」と称しています。
「永宣旨」