出雲大社教の成り立ち
出雲大社教が奉斎神と仰ぐ大国主大神は、私どもの住む国土を開かれ、農耕をすすめ、医薬の法を定めて私たちの生活の安定と幸福の基を開かれました。
やがて〝国づくり〟なさったその国土を天照大御神に奉献された大国主大神は、天日隅宮
( 今の出雲大社御本殿 )にお鎮まりになられ、 「
幽冥主宰大神 」として目に見えない世界(神々の世界・霊魂の世界)を司る神となられて、ますます私たちの幸福をお守りいただく神様におなりになりました。 |
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天照大御神の御子神天穂日命
は、天照大御神の神勅
により大国主大神の宮の祭主となり、その子孫は代々出雲國造
(出雲大社宮司)として祭祀をお仕えしており、出雲大社教では大神の御杖代
(大神の神霊を宿し、神人一体となって祭祀を奉仕するもの)として國造を推戴しています。現在は第八十四代の千家尊祐國造が出雲大社宮司としてお仕えされています。
大きな御霊力でお守りいただける大国主大神は古くより人々に慕われていましたが、さらに出雲大社から派遣された「御師」とよばれる大神の御神徳の布教につとめる社人のはたらきにより、その御神徳はますます全国津々浦々にまで伝わりました。やがて全国各地には「出雲講」「甲子講」などとよばれる信仰組織が生まれました。この信仰組織を結集統合したものが、出雲大社教の起源となります。
明治6年、後の出雲大社教初代管長となる、時の第八十代出雲國造、出雲大社大宮司千家尊福はそれまでの信仰組織をより力強いものとするために「出雲大社敬神講」を結成しました。しかし明治15年、政府は神官の布教活動を禁止したため、千家尊福は宮司の職を辞し、「神道大社派」(後に「神道大社教」と改称)を結成して、初代管長となり、本格的な布教活動を開始しました。
昭和21年、「神道大社教」は「出雲大社教」と改称し、昭和26年には出雲大社を宗祠とする姿で「出雲大社教」とよび、新たに出発して今日に至っています。
この間、昭和7年には「特立五十年祝祭」、昭和37年には「特立八十年祝祭」、昭和57年には「特立百年みかえし奉祝大祭」、そして平成24年には「特立百三十年祈りを継ぐ帰一大祭」を奉仕しています。また平成26年には、第六世管長に
千家隆比古が襲任し、出雲大社教は新たな歩みをはじめています。
全国にある出雲大社教の教会講社は特に「おしえのにわ」とも呼び、教会はその規模や歴史等により「分祠」「大教会(分院)」「教会」「支教会」に分けられます。
これら以外の名称は認められていませんが、唯一、沖縄分社(那覇市)のみが、戦後の特殊事情から「分社」の名称が特に認められています。
神楽殿となりのおくにがえり会館内にある教務本庁が全国の「おしえのにわ」を統括、サポートしています。各地の「おしえのにわ」については教務本庁までお問合せ下さい。
明治8年に出雲大社教の前身である「出雲大社教会」の教院が設置された
出雲大社旧庁舎(右側は旧拝殿)